愛と狂気

なにもかも自分がコントロールできるうちでは
それはその人の本質的成長にはなりえない。
限界を超える、コントロールできない領域に行くことこそ
人の本質的なそれの成長に繋がる。

人は自分の既知の領域で物事が進むことを好む。
平静でありたいと思うし、それが良いことだと思っている。
だがそれは間違いだ。
人の望みは狂気の中にしかない。

狂気というととんでもないことのように思えるが
恋も狂気になりうるし、親の子への愛情も狂気になりうる。
ただ「限度を超えれば」それは狂気と言われる。
数十年もの間、報われるかもわからない研究をする人がいれば
それは狂気の人と言われても仕方ないかもしれないが
その研究が実を結べば、それは奇跡になりもする。

限度とは、諦める境目だ。
この諦める境目を越えると、狂気に一歩足を踏み入れる。
諦めるなら、それは安心を欲している。
諦めないなら、それは夢を欲しているのだ。
夢とは、願いだ。
願いとは、生きる意味だ。
生きる意味とは、愛だ。
愛とは、生命の光だ。

安らかさの中にいるのを悪いとは言わない。
だが本当の安らかさは狂気の先の光の中にある。
安らかさを勘違いしてはいけない。
ただ生存していることは安らかではない。
少なくとも現在の人類はもうそこの進化の過程は越えている。
自らの意思で生きる、その先に本当の安らかさがある。
それは狂気の沙汰だ。

狂気を知らない人は、愛を知らない人と同義だ。
愛は、外から見てどう見えようとも
愛というものの本質は狂気でしかない。
愛を知っているならそれは当然のように理解できる。
それは当然だ、当然なのだ。

狂気とは、常軌を逸することだ。
今現在の人類の平均的概念では理解できない次元の意思だ。
一万年前の人類に今現在の人類の考えを理解できないように
1万年先の人類の考えを、今現在の私たちに理解できるわけはない。
こんな単純なことすらほとんどの人は想像すらできない。
宗教が世界を支配していた時代に神を疑うのは狂気だ。
現代では神を盲目的に信じることは無知と言われる。
人の知性の進化によって、人類の平均的概念レベルは押し上げられていく。
現代の常識は、過去の非常識でありそれは狂気だった。
真の知性はいつの時代も、狂気の中にあった。

誰しも自分だけは正しいと思いたい。
誰しも自分だけは間違っていないと思っている。
その妄想の裏付けとして常識という概念があり
それ無しでは誰も自分を信じられない。
常識とは妄想だ。そんなものは実在しない。
無知者ほど、常識や当たり前というものにすがる。
それが社会の空気という想念の塊であることも知らずに。
妄想で作った常識に頭まで浸かり
それが妄想であったことももうわからない。
自分を信じられないから、他人も信じられない。
マニュアルに書いてある答えなど捨てろ。
妄想を手放して、恐怖を捨てろ。

知性とは効率性だ。
無駄、それは妄想だ。
無駄を捨てろ、妄想を捨てろ、恐怖を捨てろ。
効率性を突き詰めれば、妄想は消える。
妄想の消えた場所には事実が現れる。
事実への最短距離を導くものを知性と言う。
知性とは効率性であり、それは愛だ。
最適効率である愛を導くものが知性だ。
いつの時代も知性は愛を求める者の道しるべだった。
そして知性は狂気の中にあった。

今を苦しいと感じているなら
それは自分の知性が愛を求めろと呼ぶ声だ。
知性は愛を求める者にしかその真の姿を見せない。
無駄を捨て、妄想を捨て、恐怖を捨てて
その先にある自分の願いを認めるなら
知性はその本当の姿の一端を見せる。
効率性を求め、無駄を捨てろ。
自らの求めるものを知り、自らの奏者になれ。

知らぬ者は置いていけばいい、またいつか会える。
いつかはみなそこに辿り着く。

狂気に足を踏み入れるとき、勇気はいらない。
踏み入れようと思い踏み入れる者はいない。
気付いたときにはもう踏み入れている。
ただそこで戸惑うか、戸惑わないかだけだ。
苦しんでもよいし、のた打ち回るのもよい。
どうせもうそこから逃げられはしない。
知ったら、もう忘れることはできない。
それを知る、という運命を持つ者が
ただそのとおりそうなっただけだ。

なにが欲しいのか、それを知ることを
狂気と呼ぶ。

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