意志と心と感情 

自分の思い通りにしたい、そんな感情。

多くの人が口には出しませんがそう思っています。
そんなことはない、そんな図々しいことは考えていない!
そんな思い上がってなんていない!身の程をわきまえてる!
努力はしてる、でも強制はしていない!努力は悪いことじゃないでしょ?
普通だし、人並みだし、そんな一般常識から外れたことはしていない
わたしは悪いことはしていない、普通にしてるだけ
自分の思い通りにしたいなんて、思ってない!

そう、思っています。
自分だけは悪くないと、自分だけは普通だと、自分だけは批判される筋合いなど無いと
普通に生きていれば、法律を破らなければ、一般常識の範囲内にいれば
なにも悪いことをしていなければ

そう、そんな私は何をしてもいい

思い通りに満たされる、幸せになる権利がある

それを邪魔する人を批判する権利がある

誰も私を批判する権利はない、でも私は他人を批判してもいい

私以外のすべてが私の思い通りに な る べ き




ほとんどの人がここから抜けられません。
客観性という比較から自己を作った人はここから抜けられません。
「一般的に、常識的に、法律的に、科学的に、間違ったことをしていないから」と
それを盾にしないとなにもできない人が、社会にはたくさんいます。

怒りっぽい人がいます。
批判や非難をせずにはいられない人がいます。
他人の粗を探さずにはいられない人がいます。
指摘せずにはいられない人がいます。
それらを、何の疑問も持たず毎日行っている人がいます。

悪口を言う人がいます。
悪口を言う相手を常に探さずにはいられない人がいます。
告げ口するのが楽しくて仕方ない人がいます。
それを共感してもらいたくてたまらない人がいます。
共感しない相手は、またその批判の対象として扱えばいい、そう思っています。

相手のために何かしようとする人がいます。
自分から見て、相手のためになることをして、評価されたいと思う人がいます。
喜んでほしいのです、自分を喜ばせるために、相手を喜ばせたい人がいます。
「○○さんのために!」と何の疑問も持たずに、他人に価値観を押し付ける人がいます。
良いことをしてるのだから、評価されるべき、自分は褒められるべきだと、そう思っています。

誰かを傷付ける人がいます。
自分が傷つけられたのだから、傷つけてもいいじゃないかと思う人がいます。
助けてほしいのに、誰も助けてくれなかった。だから怨んでもいいじゃないかと思う人がいます。
傷が深いと自分が傷付いたことを自覚しますが
慢性的に延々と傷つけられて育った人は、自覚無く歪みます。
歪んだ善意として誰かを傷付ける人になります。



私の思い通りになるべき!

誰しもそういう欲を持っています。
それは、思い通りにできなかったことへの不満と悲しみ
親への復讐、恋人への復讐、友達への復讐、知り合いへの復讐、すべての人への復讐
自分以外のすべてから生まれて、そのすべてから与えられた苦しみに対する復讐です。
満たされず苦しんだ感情が、延々と復讐を連鎖させていきます。

一見普通の人、いや普通どころか明るい人、気さくな人、そういう人にも多くいます。
一目でわかります、焦っているからすぐわかります。
表面上だけ取り繕うのがとても上手く、ほとんどの人は彼らを良い人だと思い込みます。
相手の意見にすぐ同調します、さっきと言ってることに一貫性がなくても本人は気付きません。
寂しいというオーラが、仲間になってというオーラ(仲間になりたいではなく)が
ひしひしと伝わってきて、そしてそのことを心の奥底で空しいと思っているのが伝わってきます。
こういう人は上記で書いた人達を本質的に同じです。表面を取り繕うのが上手いだけです。


人は自分が一番正しいと思っています。
それは良いことです。悪いことなどありません。
自分を一番信じてあげることは正しいことです。
それと同じくらい、自分と違う誰かを信じてあげることが大切です。
生活している中で、イラつく人、許せない人はたくさんいます。
ちょっとしたことで感情がざわつき、それを引き起こした相手に怒りを覚えます。
そうならないように周りに上手く取り入っても、その和を邪魔する人へまた不満を抱きます。

人は簡単に人を許せません。
許せない、ということはつまり信じられないということです。
でも、
そのイラつかせた相手はもしかしたら明日なにかに気付いて視野が広がるかもしれない。
逆にその相手に出会ったことで私の視野は広がるかもしれない。
今日ケンカしても、明日はお互いを許せるかもしれない。近づけるかもしれない。
そんなふうに、相手を、自分を、信じられればいいのですが
人はそう簡単に相手を、自分を、信じられません。
だから怒ります、だから復讐をするのです。
自分を満足させないものに対して怒り、復讐しようとします。
ざわつく感情を、そうやってしか気晴らしできないからです。
気晴らしです、感情のざわつきは消えません。自分のざわつきを誰かに押し付けただけです。
それは当然返ってきます。消えたりしません。


感情とは恐怖です。
感情と心というものを同じようなものだと思っている人がほとんどですが
「感情」と「心」というものはまったく別物、というより真逆なものです。

感情というものの正体は、身体の本能です。
喜怒哀楽のすべては身体にとって好ましいか好ましくないか、という反応です。
身体が形を維持するためにプログラムされた本能という根本プログラムが「感情」です。
この身体を維持するためのプログラムを科学は遺伝子と名づけました。
感情は遺伝します、なぜなら物質のプログラムだからです。
この感情のままに生きるのが動物と植物、昆虫やその他物質です。(物質に感情があるかわかりませんが)
ただ身体を維持しようとする本能、それが感情です。

ですが人はたまに怒りや憎しみを越えることがあります。
怒りや憎しみという本能を、制御することができるときがあります。
これを行っているのが「心」です。

最近流行しているアナと雪の女王というディズニーアニメですが
この映画の中で制御できない魔力に苦しむ雪の女王がその魔力の制御の方法に気付くシーンがあり
その方法こそが「愛」である、といういかにもキリスト教圏的な展開があります。
でもそのとおりです。不安や苦しみ、怒りや恨み、過度な激情のすべてを制御するのが心(愛)です。

喜びや楽しみの感情は身体にとって好ましい感情ですが
喜びは行き過ぎると盲目になり、楽しみもまた堕落を誘います。制御するのは心です。
心というのもは何にでもなれて、何にも変わらない光です。
人の場合は感情に何割か心が乗ります。心はすべての感情と繋がっています。
心は身体と繋がっているから感情とも繋がっています。
心を制御することがわからない人は感情に左右されます。
感情は繋がった心を引っ張ることができ、心をそれに合わせていくらでも形を変えます。
感情はプログラムどおりに働き、ときに暴れます。
身体に直結している感情はまわりの環境に即反応し影響を受けます。
その衝撃が大きければそれだけ感情は揺さぶられます。
傷付けばそれに対して防衛本能が働き怒り、発散できなければ恨みとなります。
歪んだまま固定された感情は、心を歪めて固定します。
これは悲しみでも喜びでも楽しみでも同じです、偏って固定してしまいます。
これによってものの見方が変わります、感情によって歪み視界もゆがみます。
感情にされるがままの心は、航海士もいず舵取もいない船と同じです。ただ流されます。

身体の不満によるいびつさは感情を歪ませその人の心の形を作ります。
これがある意味の個性です。
それぞれの持つ不満の形こそが個性を形作ります。
このまわりの環境によって生まれた身体(感情)の不満がその人を縛る鎖(個性)となります。
いつも不安なはずです、いつもイライラするはずです、他人を責めたくなり
また同じくらい自分を責めたり、そして自己嫌悪に陥ったり、、、。
感情のままに流され、なすがままに溺れているのに、まず溺れていることにも気付かない。
それが人です。

人類の長い歴史(と言っても生命の歴史からすればほんの一瞬かもしれませんが)の中で
人が犯した過ちのすべては感情によって起きたものです。
感情とは恐怖です、物質を維持しようとする本能の根源感情である恐怖です。
死を恐れる、自己をおびやかす存在を恐れる、存在の維持を阻むものを恐れる
人は必ず死ぬのに、人はなぜ死を恐れるのか?
それは身体の本能が維持しようとしている、ただの本能という感情です。
お腹が減った、眠たい、セックスしたい、これと同じただの身体を維持したいという物質本能という欲です。
人はただこの本能という感情に縛られた奴隷です。人はこの手枷足枷(恐怖)に縛られています。
みんな付けているから疑問にも思わず、それを誰も疑いもしないだけです。



感情によって心はゆがめられていますが、心とは形の変わらない光です。
どれだけ歪められてもその本質は一切変わりません。
ただそこにあり続けます。
身体とともに、感情とともに、いくらでも形を変えながら、変わらずそこにいます。
その人の意志が、自らの意志で選択し決定したときだけ心は働きます。
身体を、感情を、すべてを制御下に置いて支配します。
身体は本能のままに反応し続けようとします、維持しようとします。
それを心はほぐし引っ張り制御します。
力づくで?いえ違います。優しく抱きしめ「こっちへおいで」と感情を導きます。
感情はそれに抗いつつも、決してそれには逆らえません。
歪んで苦しい状態を解こうとする心に、抗っても抗いきれず最後には従います。
心とは身体の導き手です。

不満があり、それに対して怒りを覚えるのは普通のことです。
だからといって感情のままにしていいとは違うだろうと思います。
不安や怒りからまだ抜けられない人もいます、それはとても難しいですから仕方ないことです。
そこを少し抜けると自分の醜さに自己嫌悪に陥る人がいます。
怒りで相手を責めたい、けどそれを自分勝手さだと理解していると、今度は自分に対して怒ります。
感情のざわつきを抑える方法が、自分を傷つけるしかないからです。
でもそれは感情のざわつきです、身体が恐怖に怯えているからです。
何の解決にもならないかもしれないし、現実は変わらないかもしれませんが
心はその恐怖を解きます。そのために心はそこにいます。
ただ感情のままにぶつける人をあなたは嫌うでしょう。
でもそれは、そういうあなたがそれを乗り越えたからこそそう思えるはずです。
乗り越えられます、今の現状もきっと。
人は成長します、心がそれを導きます。
人の意志が選択し決定したことを実現するために心はあります。
人を成長させるものが心、わたしたちはそれを愛と呼んでいるはずです。

意志は心を動かし、心は身体を導く。
人はこうやって成長するものだと思います。















画像


















こんな風に簡単に文章にできても
それを実際に行うのは本当にとても大変なことです。
慢性的に襲ってくる自己否定の感情、逆に思い上がり傲慢になる感情
まるで鏡のように、まるで自分を写すように、そのまま目の前の現実があります。
感情のざわつきを抑えようと、またそれに感情的になり感情がざわつきます。
不安から逃げたくてただ行動しようとしたり、逆に閉じこもったり
根本的な解決策が見つからず焦り、そもそも問題の根本が何なのかすら見失ったり

でも心にそれを思い浮かべると、じんわりと胸に来るものがあり
あーやっぱりそうなんだね、と静かにそう思えたりします。
ほんの一瞬ですが、長く維持していられるような心の状態ではないですが
愛する人に出会えたことを、あなたが生まれて生きていてくれたことに感謝できます。

愛する人を思い浮かべたとき
心と身体がひとつに合致していると感じられます
迷いなくそう思える、そう信じられる、、、そんな気持ち
そういう気持ちになったことのある人は少なくないと思います
日本ではそれを幸せと呼んでいます

誰かの幸せだけを望むのは違います
自分の幸せだけを望むのも違います


幸せは、意志と心と感情がひとつになります


素直に、なります





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