「自分は自分で良い」

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他人に対する怒りや不満は、自分が正しいと思うからこそ外に出せるものです。
自分は正しい、だから自分が怒りを感じる奴は間違っている、間違っているなら、自分は正当ならば、堂々と自信を持って自分が傷付くことなく、他人を否定できるのです。

ですがこの世に正しいも間違っているも本来はありません。
正しいと間違っているはそれぞれの都合であり、変わり続けるものです。
その中で「自分は正しい、だから相手は間違っている、だから攻撃する」を行いたい人は
自分は正しい、という証拠を探しはじめます。
自分の言うことに肯定してくれる人を探します。
自分の言うことを肯定してくれる本を探します。
自分の言うことを肯定してくれる公式を探します。
自分の言うことを肯定してくれる概念を探します。
自分の言うことを肯定してくれる自分にすがって、目を、耳を、感覚を閉じます。


「自分は自分で良い」

という一見綺麗に見える都合の良い隠れ家。
ここに誰もが居心地の良さを感じ、疑うことなく永住を決めます。
さも素晴らしいことのように見える「自分は自分で良い」という考え方。
じゃぁ、と思うのです・・・

「自分とは何ですか?」と

自分は自分です、そこで完結できます。
ありのままでいいのです、自分なのですから。
でもそれと同時に「他人は他人」なのです。
自分と同じようにすべての人をそう扱える人にしか
「自分は自分」という言葉は本来使えないのです。

「自分は自分」というのは「木は木」「鳥は鳥」「星は星」「愛は愛」というくらい単純です。
つまり「他人は他人」「相手は相手」ということでもあるのです。
相手がどんな形であっても自分は自分として触れられる
これが「自分は自分」という状態です。

でも多くの人はそうはなれません、当然私もなれていません。
自分の思い通りにならないことが不満で、それに対して怒りを感じます。
その怒りを正当化したくて理由を探すのです、理由が後なのです。
自分が納得できる、自分を騙しきれる理由を、ウソを、こしらえます。
不満を抱えたまま、抱えたままの自分を騙せるウソを作り上げます。

多くの人が作り上げている自分の中のウソ、これが「自分」です。
多くの人はこれを自分だと思っています。
これを自分の個性だと思っています。
これを自分が譲れないものだと思って、大事に抱え込んでいます。
このウソを守るために、このウソが覆い隠している不満を見ないようにするために
人は、怒るのです。

不満が不満を呼び、またそこにウソを重ね、そのウソを守るためのまた自分を作り上げる。
そして「自分は自分で良い」と言うのです。


怒りは苦しみです、悲しみでもあり、そしてすべては不満です。
思い通りにならないことへの不満です。
不満は解消できるものならいいですが、解消できないものはそこに残り続けます。

残り続け、それはずっと痛いのです。

これはとても辛い苦しみです。想像を超えて長く痛いものです。
それを直視し続けられる人はそうはいません。
それにウソを重ねて見ないようにしたとしても、それを責めるのは酷でしょう。
痛みを抱えたまま日常生活を送るのは難しいです。
このウソはモルヒネや麻薬のようなものだと思ってもらってもいいかもしれません。
それをしないとまともな社会生活を送るのは難しいでしょう。

私のまわりでは「自分は自分で良い」という言葉を使う人が多いのです。
私自身もその一人で、それでふと思いました
みな抱えきれないほどの苦しみを抱えているのだろうと。
その苦しみをどうにかできるならとっくにしてるのです。
でも出来ないから、目を背けるしかどうにもできなかったのだと思います。


すべての欲を捨て、不満を消し、悟りに至れ。と言うつもりはまったくありません。
ただ苦しいまま生きるのは辛いだろうと
それがどうしようもないこととはいえ、やせ我慢したらもっと辛いだろうと
でも助けを求めて断られることがさらに辛いので、何も言えないのでしょう。
不満が解消されないと、さらなる不満を生んでさらに苦しむはめになります。
それが怖くて動けない、「だったらこのままでいい!」と思ってしまうのでしょう。

まるで本当はお父さんとお母さんにだっこしてほしいのに、、遊んで欲しいのに
かまってほしいのに、それを言えない子供のようです。
弱い人ほど自分が弱いとは簡単に認められません。
相手を虐げてでも自分の優位性を自分自身に証明したいものです。
いまさら「だっこして!かまって!愛して!」なんて言えないのです。
だからそれを攻撃として表現するのです。
構ってほしくて危害を加えるのです、子供のそれと同じです。
足りない愛を、その不満を埋めるように愛してほしいだけなのです。
不満が生まれ、それが痛くて、それを隠すウソを付き、それが自分になっていく。
それを自分だと思ってしまうのです。

相手を否定したいという気持ちは、自分を認めて欲しいという気持ちでもあります。
自分一人で埋められないものを誰かに埋めてほしいという弱さです。
どれだけ否定してその議論に勝ったとしても、すぐまた何かを否定したくなります。
本当に欲しいものはそんな議論の勝利などではないからです。
愛したい、愛されたいという原因からはじめないと、いつまでも堂々巡りになり
いつかは心が擦り切れて二度と立てなくなってしまうかもしれません。

弱い自分は弱い自分で、そう気付ければ良いのです。
他人は他人で弱いと、そう同情してあげればいいのだろうと思います。

「自分は自分で良い」と言える人は「あなたはあなたでいいよ」ときっと言える人です。
それは「あなたがどんな形でもそれに合わせて私は変われます」ということであり
どう変わっても自分を失わないという人でないとそれは出来ないことのような気がします。
あなたはあなたでいいよ、と言う人は、きっとその人を愛しているのだろうと思います。
その人が自分より大事だから自分の形はどうとでもいいのかもしれません。
あなたはあなたでいいから、あなたの形がどうでもそれで良いと言えるのだと思います。


常に変わり続け、そしてずっと変わらない。
自分は自分で良いのです。あなたはあなたで良いのです。

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