宗教について第十回「永遠という実存について」

宗教としての永遠という概念の説明

永遠とは、際限の無い、変化の無い、時間の無い、空間の無い、はじまりの無い、終わりの無い
一切が無く、そしてそれゆえに一切が実存していることを指します。
何も無いが、ある。と書くとわかりやすいのですが
この言葉でも「何も無い」と「ある」という対象性があるために
それは有限となってしまうため、永遠とは説明ができません。

そもそも永遠と言う言葉も本当のところはまったく検討違いの言葉です。
永く遠いものとか、そういう尺度のものでもないのです。

宗教で永遠というものはすべからく神として扱われます。
(ここで言う神とは日本で言う神ではなく、人間に想像不能ななにかです)
それは唯一の神であり、この世界に唯一存在しているものです。
宗教で伝えられる秘儀や真理と言うものは、すべてがその説明不能で
想像不能なものに辿り着くためのものです。

宇宙学者や物理学者が宇宙や世界(空間)を仮説をもって説明しています。
ひとつは宇宙無限説
宇宙は無限に広がっている、果ては無い、どこまでも続く。というもの。
ひとつはマルチバース説
宇宙から子宇宙が生まれ、またそこから孫宇宙が生まれ、それが無限に繰り返される、というもの。
ほかにもあったりすますが
今現代で一番有名なのはこの二つだろうと思います。
この二つに共通するのは「無限」、つまり終わりが無いということです。
わたしたちは有限の世界に生きています。
物質的に、エネルギー的に、わたしたちは限りのある世界で存在しています。
わたしたちはそもそも「限りの無い」というものがどういうものかわかりません。
なんとなく「すごーく広い、すごーく大きい、すごーーく永い、すごーーーーく、、、なんかすごい」
と漠然と捉えている人がほとんどだろうと思います。
宇宙学者や物理学者も「無限だ」と簡単に言葉にしていますが
彼らも無限というものがどういうものかなんてわかっていません。
ただ漠然と「想像が及ばないから、想像できる限界の先がずっとあるんだろう」と思っています。
わたしたち人間は、想像できるところ、つまり認知できる限度までしか考えられません。
そのめいっぱいより先を、そもそも「想像できていない」のです。
終わりが無い、際限が無い、そう言葉にはできても
それを明確にこういうものだ!と想像することはできません。把握、できないのです。
その理由が、わたしたちが有限の存在だからです。

この宇宙が完全な物理法則(現代科学の限界より先まで含めて)動いているとして
私たちが有限である以上、この宇宙、この空間は確実に有限です。
インフレーションからのビックバン宇宙誕生説が事実だと過程するならなおさら
「はじまりがある」その時点で「終わりもある」のです。それが有限というものです。
対となる対象性を持つ、これが有限の特徴です。
対となって消滅する、それが有限というものです。

はじまりはあるけど、終わりが無いのかもしれないじゃないか!
と考える柔軟性を持った方もきっといるでしょう。そのとおりです。
ですが終わりが無いということは無限です。
無限というものは、終わりがありません。
終わらないということは、質量とエネルギーが無限に存在するということで
それはつまり時間が終わらないということであり
空間が無限に存在するということであり
その無限に広がる凍てついた宇宙を、無限に動かすエネルギーがあり
空間を無限に広げる、なにかがあり
そのなにかは、無限なのです。
そのはじまりのある宇宙を、生み出した何かは無限でなくてはならないのです。
それにはじまりがあるか?と問い、そのなにかを生み出した無限があり、
その無限が何かと問い、、、、けっきょく、はじまりが無くなるのです。

無限、永遠となった時点で、なにもかもが私たち人間の想像の域を超えます。
それは、理解の域を超えており、説明不能、言語化不能、そして想像不能になります。

なぜ多くの人が無限という概念があることを理解しながら
それを考えようとしないのか?
それは、考え出したら終わりが無いからです。
そして、それを考え始めると
「今の自分のすべてが無意味だ」と感じるからです。

わたしたちは有限です。
この地球規模から見ても、私たち地上の生物は微生物程度の存在です。
太陽系規模ならさらに小さく、銀河系規模ならもうなんなのかすらわからず
銀河星団の中にいたっては想像するのもわけわからなくなり
無限空間の宇宙の中などと考え始めると、、、

有限でできている宇宙規模でですら、わたしたちは虚無感に襲われます。
自己が自己として実在しているという認識が、おびやかされる恐怖。
それがあるから人は無限について考えません。
誰しも思春期くらいのころにそういうことを考える、とたまに言われますが
本当にそんなものを考え想像する人間はごくごく一部です。
この圧倒的恐怖に対して脳が行うのがフィールド作用です。
自分が生物として生きるのに必要なフィールドのことだけを考える、
それ以外のことは考えない、想像しない、無視する。
これを脳が自然と行うことで人は常に付き纏うこの無限という概念の恐怖を掃います
生物の本能の知恵であり、生命の知恵の足枷です。

一般の人が、無限とか永遠とかそんなのどうでもいいよと思うのは
このフィールド作用が自己の存在を否定する絶対的恐怖である無限の概念から
生物を守るためにあえて付けた足枷があるからです。
生物は有限の存在です。それは生物の親である宇宙が有限だからです。
有限は有限しか生みません。有限は、無限とは決して相容れないものです。


宗教の秘儀や真理で言うところの「永遠」。
それは有限でないもの、を指します。
ですが、有限であるこの世界がある時点で、無限である永遠は存在しえません。
なぜなら、永遠がある時点で、有限は存在できないからです。

そしてここが一般の方が発想しづらい考え方の点です。
「この有限の世界は本当に実存しているのか?」ということです。
は?何を言ってるんだ?今ここにいる私たちの世界こそその証拠だと思われるでしょう。
ですがさきほども書きましたが
宇宙のはじまりはどこですが?
インフレーションからはじまるビックバンが宇宙のはじまりだとすると
そのインフレーションを起こした何かはいったいなんでしょうか?
そのなにかにインフレーションを起こさせたなにかを生み出した何かとは何でしょうか?
またそれを生み出した何かはなにで、またそれを生み出したそれは何でしょうか?
はじまりは、どこでしょうか?

真理と呼ばれる学問において
はじまりが無い、少なくとも我々はそれを見つけられない。
はじまりが無い、ならばそれは無限であり、つまり終わりも無い。
この宇宙は、大きな無限の一部ということです。
ですが無限と有限は相容れません。
無限が存在するなら、有限は存在できません。
そしてさきに書いたとおり、無限は有限であるこの世界を内包しています。
ですが、無限の実存があるので、そこに有限は実存しません。
結論を、宗教的な言葉を使って説明するなら、、、

「この世界は、無限に内包された非実在。つまり無限が見ている夢である」

ということです。
わたしたちは存在していないという結論です。
知らない方が多いですが、「仏陀」というのは、人の名前ではなく「目を覚ました人」という称号です。
専門用語では覚者などと呼ばれたりします。
そのほかさまざまな宗教においても、「目を覚ます」という表現が多く使われ
現実世界が誤りの世界で、天の世界こそ真実の世界だと書かれたりもしています。
これらすべては上記で書いたことを説明しようとされたものです。

宗教の教えなどで、物質に執着してはいけないとあったり
心を安らかに生きなさいと教える理由が
人が生きていく中で、いつか必ずこの「自分の存在が無意味だ」という結論に至るからです。
物やお金、信頼や名声、それらを必死に求めても、何の意味も無い。
最後に襲ってくるのは、自己の存在の有無という恐怖。
たくさんのものを持っていて、それに執着するほど、失う恐怖につぶされ、自己の無意味さにおののきます。
多くの宗教が「この恐れの逃げ道」としての役割を持っています。
思考を放棄することで恐れから逃避する、これが現在の宗教です。
多くの宗教が愛と平和を語りながら、他者を否定します。
愛のために、他者のために、自らの拠り所を放棄する、、、これができないのが現代の宗教です。
彼らは何も見えません、「目が覚めていない」からです。
脳が作ったフィールドの中で眠っている人です。


今は、無限です。
そしてその今を認識している意識もまた無限です。
時間の概念に縛られないもの、それは無限です。
これを実感した人を、悟った人と言います。
頭で理解しても、何の意味もありません。
実感し、それが実存すると理解すること。
歩くと意識しなくても歩けるように、動かそうと意識しなくても手が動くように
自己の意識が無限として実存すると疑問にすら感じないまでに理解できるなら
この無意味という意味をきっと理解できるだろうと思います。
















小学校2年生のとき、放課後の校庭で自分の手のひらを見つめていて
これが分子でできていて、その分子は原子でできていて、それももっと小さなものでできていて
それをもっと砕いて、こまかくして、どんどんどんどん進んでいくと
ワッっと世界が開けて、宇宙が広がっていて、そこをどんどん進むと銀河系があって
太陽系があって、地球があって、日本があって、学校の校庭に自分が立っていて
私はその瞬間手のひらから振り返って空を見上げたとき
「あぁあそこからぼくが見ていて、この世界の物質の数だけ同じように無限に僕がいて
それがずっとずっとずーーーっと続いているんだ」
と、気付きました。
そのときその瞬間のことはとてもはっきりと憶えているのに
なぜそんなことを考えたのかのきっかけはまったく思い出せません。
私は普通の子供でした。
いや、どちらかというとバカな子供だったろうと思います。
バカと言われて育ちました。
あの当時の私がなにを探していたのか。今はもうわかりません。
もしできるなら、その当時の子供の私を抱きしめて、褒めてやりたいです。
キミの考えたそれはインド哲学の無量説という考え方で
それを何の本も知識も無しに、想像力だけで辿り着いたキミは
すごいことを考えたんだよと、せめて私だけでも言ってあげたいです。

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