日本神話解説④ スサノオ~人間

日本神話解説④

10.スサノオという人間、火と根の子
日本神話ではこのあと天界高天原を舞台にしてしばらく進みます。
つまり地上の話は描かれません。
このとき地上では鉱物から植物へ植物から動物への進化がすでにはじまっています。

根はより個であることを維持する重さ(束縛)に身動きが取れません。
すべてに満たされていた実在より離れていったことにより個となった物質は
身動きすることができず、その孤独に苦しみます。これを無明と言います。
すべての物質には生命が宿っています。
しかし絶対光(実在)より離れたことによりもはや身動きすらできない状態になってしまいました。
生命にとっての最大の苦しみ、孤独という苦しみです。
しかし物質は意志は持ちません、ただ苦しむだけなのです。

火は逆に個を開放することを目指しそちら側に引っ張ります。
物質ではない火(智慧=愛)はそれ単体では何の存在意味を持ちません。
物質と共にあってこそはじめて存在の意味を持つものが火です。
お互いがいなければどちらも何もできないのです。
火は、根を開放するためにここから永劫の献身をはじめます。

これにより物質はより自由を目指す進化を、ゆっくりはじめます。
何億年、何十億年かわかりませんが、火の根への献身は果てしなく続きます。
そのうち物質の中から動くもの、進化の末に「生物」と呼ばれるものが発生します。
すべての物質は光によって進化する生命ですが
ここではじめて現代人が有機生命体と呼ぶものが発生します。
ゆっくりだった進化は少しずつ加速しはじめます。
楕円を描くように下降進化した生命は、この折り返し地点が一番ゆっくりでした。
まるで放物線のように頂点が一番ゆっくりなようにです。
生物は、植物となり、動物となります。この進化も何周期もかけて行われました。

そしてついに根の個としての質料を持ち、火の愛という精神を併せ持った生物。
「人間」が発生します。


日本神話では、イザナギに天をまかされたアマテラスと
夜をまかされたツクヨミはそのとおりに統治を行います。
しかし海原を統治せよと言われたスサノオは別でした。
スサノオは統治するどころか泣き叫び海原と地上は大いに荒れました。
イザナギは訳を聞くと「根の国にいる母に会いたい!」と言います。
イザナギは叱りますがスサノオは聞く耳を持ちません。
最終的にスサノオは追放されることになります。
スサノオは母に会うために根の国に行くことにしました。

このスサノオの行動は父であるイザナギそのものです。
妻に会いたいがために根の国まて飛んでいったイザナギ。
天(火)の属性として生まれたスサノオは母(根)を求めました。
それは狂おしいまでの引き合う生命の表現だと思われます。

スサノオは母に会いに行く前に愛する姉に挨拶をしにいくことにしました。
姉ならば自分の気持ちをわかってくれると思ったからです。
ですがスサノオは荒神、高天原に向かうと嵐が吹き荒れました。
高天原のアマテラス他天津神たちは驚き、スサノオが天を侵略しに来たと思い
武装してそれを迎え撃ちます。
しかしスサノオにはそんな気はありません。そこで誓約の儀を行い疑いを晴らしました。
(誓約の儀とは偽りが無ければスサノオの持ち物から女神が生まれるというもの)
疑いの晴れたスサノオは高天原にとどまりますが
調子に乗ったスサノオは高天原で暴れたい放題に暴れます。
ついにはアマテラスの機織場に生皮を剥いだ馬を投げ入れます。
このことに驚いたアマテラスは岩戸に閉じこもります。
太陽の女神であるアマテラスが隠れたことにより世界は光を失います。
天でも地でも大混乱が起こりました。有名な天岩戸伝説です。
天津神たちの努力によりアマテラスはふたたび姿を現し世界に光が戻りましたが
スサノオは天界からも追放されてしまいます。

これもまたイザナギとイザナミの行った国生みの反映です。
スサノオは海原の神であり、地に近い天属の神です。
それゆえに彼は泣き叫ぶ(苦しみを訴える)性質を持ちます。
イザナミが声を先にかけた国生みが失敗だったように
海原より天へと上がったスサノオの行為は間違いです。
地から天へ、根から火へでは逆ということです。



追放されたスサノオは地上にはじめて降り立ちます。
天の神ではじめて地に降りた神でした。
地には国津神という地の神々がいました。根の属性です。
そこでスサノオは嘆き悲しむ老夫婦に出会います。
理由を聞くと8人いた娘のうち7人を八岐大蛇という化け物に食われ
その最後の一人の娘も今年生贄に出さなければならないと言うのです。
それを聞いたスサノオは娘の身代わりに生贄に化け
隙を突いて八岐大蛇の八つの首を斬り落とし退治します。
そのときオロチの尻尾から一本の剣「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」を見つけます。
そしてその末の娘、櫛稲田姫(クシナダヒメ)を妻に娶ります。
これも有名な「八岐大蛇伝説」です。

荒神であったスサノオがなぜ突然このような英雄的行動を取ったのかはいろいろ言われていますが
母親に会いたいと泣き叫んでいたスサノオはもはやここにはいません。
国津神の娘のために戦ったスサノオは、まさに根のために献身する火です。


※ここで倒された八岐大蛇はイザナミの体にまとわり付いていた八匹の雷龍と同様のものと思われます。
龍(蛇)は不滅の叡智の象徴なのですが、ここでは国津神の脅威として出てきます。
龍は日本では水神でもあり八岐大蛇は毎年荒れる河川の神格化とも言われます。
ですがこの龍の尻尾から出てきた天叢雲剣は雷と雨を操る剣であり
天の光ではない、雨という天のもう一つの恵みを操る神剣です。
スサノオはこの剣を天のアマテラスに献上しています。(スサノオは姉への愛が強い)
ここに日と雨といい農耕にもっとも必要な二つの神の恵みが揃います。
これにより農耕文化が新たな智慧として地上にもたらされることの表現とも思われます。

神話はこのあたりから古代日本の歴史が混ざってきます。
生命の進化という部分と歴史的事実の神話化が混ざりはじめます。
そして最終的には生命の進化の要素は無くなり
大和政権による統治という歴史的神話の物語へと変わっていきます。


スサノオはその後妻とともに根の国へ赴き母と邂逅します。
神話でそこは描かれませんが、彼はそこで「根の王」となり
その子孫は出雲の王・大国主という国作りの神となります。
地上に降りた天の王子は地の妻を娶り、そして地を統べる王となります。
光(火)は物質(根)とふたたび結びつき、火は根を導く王となります。
天と地、火と根の属性を併せ持つスサノオは人間そのものです。
彼は上位の神の導きではなく、己の道を己で進みました。
自己で選択をし、苦しみ悲しみを越え、そして自分の為すべきこと
根を救い導く献身の道へと辿り着くのです。
人間の中には火と根の両方の属性が存在します。
根の孤独という苦しみを、精神の火という献身=愛が乗り越えさせる。
これを上昇進化と言います。

個でありながら人間は孤独を望みません。
わかりあえないことを知りながら他者とわかりあうことを希望します。
わかりあえないことに傷付き、心を痛めます。
それでも誰かを愛することをやめることは決してできません。
それが人間です。

そして孤独を開放するものは、個の開放、自己防衛の放棄
愛であり献身という精神の光です。
心に灯る火です。
火の導きにより孤独に苦しむ質料は開放する方向へ進化していきます。
人間は自らの足で進化への道を選択し歩んでいきます。
しかしその人間の内にはここまでのすべての神を内包しています。
有限の無際限のすべてを内包しつつ、人間はふたたびそこを目指します。
スサノオは最初の人間の表現であり
イザナギのイザナミへの愛の反映であり
進化する生命の二側面の求め合う対象性が私たちの宇宙で結実した姿です。

人間という火と根の結実した生命の中で
常に善悪という二つが戦っていますが
この善悪という概念をほとんどの人が何なのかわかっていません。
善悪は立場によって変わり、見方によって変わり、決定できないものと言われています。

しかしここで書くことは
善とは進化する生命を開放する愛であり
悪とはそれを阻む質料の重さ(無明ゆえの執着)と断言するということです。
その不自由さゆえに感覚の窓が狭く、また無知(無明)ゆえに窓は曇り真実を誤解しそこに囚われます。
人間の五感というものがありますが、人間はこのたった五つの感覚の窓からしか世界を認識することができません。
この五感を統合したものを六感と言います。それを越えた新感覚を七感と言います。
現在の人間の進化段階では五感とそれを統合した六感が少しだけ感じられるくらいです。
この不自由さゆえに人間は物事の本質に気付くことができません。無明です。
物質こそが絶対的なものであり、物質的快楽を娯楽と言い、物質的身体を自己だと言います。
孤独の恐怖に怯え、その恐怖を拭うために他者を脅かし、物質で周りを埋めます。
この寂しさに人間は気付けません。
この寂しさに、孤独の本質に気付くときは、人間が愛を思い出したときです。
愛に出会ったとき、内なる愛が呼び起こされたときだけです。
すべての人間は愛を知っていて、その愛に導かれています。
愛は境を失くす、個を全へと導く進化する生命の力です。
イザナギはすべての人間の内に存在する、愛する心です。
イザナミはすべての人間の内に存在する、愛されたいという祈りです。
愛することにも愛されることにも、そこには孤独という恐怖との戦いがあります。
泣き叫びたいほどの寂しさに荒れ狂うでしょう。
イザナギは姿を変えて、妻をそこから救いにいきます。
それにどれだけ時間がかかろうとそんなものは関係ないのです。
妻を連れていく、ただそれだけのためにイザナギはすべての人の内にいます。
そしてすべての人の内のイザナミはただずっと夫を待ち続けています。
必ず、何度でも、どれほどの苦難があろうと、夫は来てくれると信じて。
いつか一つになるときを信じて。

分化する火と根は惹かれ合う二つの側面です。
いつかまた一つになります。
戻るのではありません。
一つになるのです。


その後高天原よりアマテラスの系譜である邇邇芸命(ニニギノミコト)が天孫として地に降臨し
スサノオの子孫である大国主が国譲りをし、日本は一つの国になります。
歴史的なことを照らし合わせるとこの時代は争いの多い時代だったと言われています。
この天(火)が地(根)に降り、また一つになるということもまた火と根の反映です。
おそらくこれが日本神話内で描かれる最後の生命進化の表現だと思われます。
ここから人間の歴史がはじまります。
迷い、苦しみ、傷つけ合い、過ちをおかし、挫折し、諦め、絶望する人間の歴史。
しかしそれでも人間は進化しています。
数千年前にはわからなかったこと、できなかったことは
今の現代では当たり前になり、疑問にすら思わないことばかりです。
しかし現代には現代の問題があり、まるでその問題は解決できない絶望のようにも見えます。
ですがまた数千年もすれば、その問題は当たり前に解決できるようなことになっているかもしれません。
古代の人間が知りえなかった智慧や精神性を、現代は叶えているように
数千年後の人間は私たちが不可能と思えるようなことを可能としているでしょう。
人間の認識力はさらに拡大することになります。
言葉というものの不自由さに気付くでしょう、五感というものの不自由さに気付くでしょう。
わかり合うなど不可能だという現代の人間の常識は覆されるときが来ます。
誤解による争いが無くなり、嘘が無くなり、そして私たちが思う恐怖の一部は消え去るでしょう。
そこですらまだまだ続く永劫の旅の途中でしょう。

世界中の神話に共通して描かれるこの表現は
進化する生命の過去と現在と未来を同時に描いています。
ある一つの真理の教えが元になっているとも言われますし
世界中の人間の内にある真理が表現された結果、それは同じだったとも言われます。
人知とは現代では客観性のことを言いますが、人知とは主観もあってはじめて人知です。
対象性のすべては同一として扱ってこそ本質に辿り着きます。

その本質はきっと人それぞれかもしれませんが
その人ぞれぞれという同一の一という真理です。
私は智慧を求めることを真理とは思いません。
ある人は
「仙人とは山の人と書く、俗人とは谷の人と書く。
視点の差であり、谷にいる人に山の上の風景を話しても理解はできない。
理解できないものを話したところで俗人は何も拾うことはできず
逆に真理を持つ者を殺すだろう」と言いました。
言っていることはよくわかります。
でも私はそれを真理とは思いません。
真理とは言葉にならないものです。
言葉にならないある何かです。

ことばにならないのです

たとえるなら それは熱 それは振動 それは光 
たとえるなら それは君 それは声 それはぬくもり

有形からより無形なもの

ちがう、どれも違う、やはりことばにならない

それは

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