アイデンティティ -火の巫女-

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アイデンティティ(自我同一性)

「何のために生きるのか?」
「何のためにここにいるのか?」
「自分とは何なのか?」

アイデンティティ、自我同一性というものは
思春期から青年期にかけての精神的な葛藤であり
社会性の中でそこから自分で汲み取る、発見する「自分の居場所、存在の意味」です。
人生の歩き方、と言ってもいいかもしれません。

社会の中で生きていくためには、基準が必要です。
社会の中にはいろいろな考え、思想があり、それらがすべて一致することはありません。
国々で違い、地方でも違い、職場などでも違い、家庭ごとにも違い、そして個人で違うものです。
この自分の外側のものに対してどこで線を引くか、基準として確定させて生きていくか。
これが一般的に言うアイデンティティというものです。
基準を決めることで価値観がある程度固定され、これは良い、これは悪いなどが自分の中で明確になります。
価値基準を決めることにより安定した自分自身を形成すること
一定の社会との関係性を確立することを一般では「大人になる」と言います。

多くの人がこの社会との関係性により自分の価値基準を決めます。
社会に必要とされること、誰かに必要とされること、これらを基準とします。
もちろんこれらは立派なアイデンティティであり、人間が生きるのに必要なものです。
青年期のうちでさまざまな葛藤や摩擦と出会い、経験し学び、それを体で憶え
生き抜くために必要な形の自我を形成する、生物の本能です。

ここに「正しいか間違っているか」は関係ありません。

社会によって、外的要因によって形成されたものです。
本当に多くの人が「みんなそうだから」「法律でそうだから」「それが普通だから」
という漠然としたものに影響を受け、それに沿った自我を形成します。
わかりやすく言うなら、お国柄、というのがこれをとてもよく反映するかもしれません。
日本でも数百年前は領地の奪い合いで戦争ばかりの時代がありました。
現代では考えられないような残虐非道なこともあったでしょう。
でもその時代に生きていればそれが普通で疑いません。
その外的要因によって形成された自己はそれを基準にしているからです。
その環境の中で生きやすい選択を選びそれを基準として自己を確立します。
現代も基本的に同じです。誰もそれを疑いません。
生きるための動物の本能に近い、人間の動物的本能かもしれません。
善悪では無いのです、環境に適応してるだけ、それが一般的に言う「自我同一性-アイデンティティ-」です。

誰もがこれを自己だと思っています。
外的要因という環境に適応した結果、形成された自己。
親、兄弟、友人、親戚、恋人、子供、その他の自分と接触するものすべて。
そこから逆算的に導き出された自己。
ほとんど多くの人がこれを自分だと思い疑いすらしません。
そんなことは無い!そういう様々なものを積み上げて背負っていくことこそ人生で
その積み上げたものこそが自分だろう!と言う方もいると思います。
それもそうだと思います。
じゃあ、、、それらが無ければその人は存在しないのですね。
あなたという存在は無く、外的要因によってのみ作られたものがあなたなのですね?

違うはずです。
そこにそれらを選択した最初の自分がいるはずです。
あらゆる外的要因の中からそれを選んだあなたがいるはずです。
どこにそれがいますか?
あなたを形成しているものを一つずつ剥ぎ取っていくと、それは現れます。
それが自我、そしてそれと一体化することを本当の「自我同一性-アイデンティティ-を確立する」と言います。

自我と同一化し、それを確立する。
俺は俺でいい、私は私でいい、単純にはそういうことです。
よくこの自分は自分でいい、という言葉を使う人はいますが
大抵の場合は自分で作った価値観の壁の中に閉じこもっているだけです。
ですが本当の私は私で良い、というのはそれとは真逆です。
疑うことない自我と一体化したその人はとても平穏です。
静かに自分を信じています。そして素直に他者・他物と接します。
すべてを選び取る素直な自分こそが基準で、それを信じているのです。
外的要因(偏見)が無いので、うつろわず揺るがないということです。
ものすごく簡単に言うなら、正しく自分を見つめている、自分にも他人にも素直な人、ということです。


人は欲が深く、なんでも思い通りにしたいと思ってしまいます。
思い通りにならないと苦しみます。
一般的にはこの状態を自我と現実が乖離して苦しむ、と言います。
精神疾患のほとんどはこれに当たるだろうと思われます。
外的要因によって膨らんだ自己を持つほどこの苦しみは大きくなりがちです。
こういう自分でありたい、こういう自分でならなければならない、
そうでないと幸せじゃない、そうでないとおかしいとみんなが言う、
そうでないと差別される、そうでないと蔑まれる、そうでないと落ちぶれる
まわりと同じでなきゃいけない、まわりより上でなきゃいけない
誰にも脅かされない自分でなきゃいけない、、、そうじゃないと安心できない。

悲しいことですが、このこうでないといけない自分を確立することを
アイデンティティを確立すると思っている方は多いです。
こう思ってしまう方の多くは幼少期に自由にできなかった方が多いです。
人は大なり小なり抑圧下で成長しますが、それが強すぎると
自分から自由を奪い「こうでなければならない自分」を作ってしまいます。
またこの状況に陥りやすい人は、繊細でとても精神性の高い方に多いです。
強い意志力によって逃げることすら拒めてしまう方に、多くなってしまいます。
繊細さゆえに愛情に敏感で、精神性の高さゆえに賢く器用でその状況をなんとかできてしまい
その二つを持つゆえにまた意志力が強い。
本当に悲しいことですが、優秀な素質の持ち主ほどこうなりやすいということです。

アイデンティティを確立するというのは
素直な自分を認めてあげる、ということです。
一般社会で生きていくうえで作り上げた自分を装うことは必要です。
でもだからといってその装った自分を自分と思いこんではいけません。
まわりが本当の自分に気付いてくれないと辛いのはわかります。
どんなに評価されても、モテモテでも、それが装った自分なら空しいだけです。
少なくともあなたはそれが空しいことだと感付いているでしょう。
だから寂しくて、また評価されている装った自分に依存したくなるのかもしれません。

美しさとは言葉にも形にも本当のところはならないものです。
人の美しさの基準というものは、いかにその人が真の愛に近いかで決まります。
外見を気にするのもとてもわかります、でもそれがすべてでないことは明白です。
だって外見がすべてなら目の見えない人は人の美しさをまったく理解できないことになります。
そんなことはないはずです、美しさとは五感から感じ取るものではありますが
美しさとは五感を越えたところから感じるもの、愛そのものだからです。

他の誰が何を基準に何を言おうと
それをあなたがそうだと感じないならそれを無理に信じる必要はないです。
それはあくまである位置ある視点ある角度からの一意見ですから。
自分の心が言うことを基準に、感じることを基準で良いと思います。
その声は少し小さいですからしっかり聞いてあげるようにしてください。


本当のあなたに出会ったのなら
あなたはあなたのままでいいと思います
誰かが許したあなたではなく、あなたの好きなあなたで
そして愛することにも、愛されることにも素直に
アイデンティティとは、本当の強さとは
愛することを信じる自分を、信じる勇気のことだと思います
自分と相手を信じる心

愛は波、振るえ伝わる心です




信じられませんか?
じゃこう言えば少しは信じやすいでしょうか
音は波です、波長です
光、電磁波は波です、波長です
素粒子世界の量子のゆらぎは、距離を越えて人と人を繋げます
それは振るえ伝わる心です
そこに嘘はありません
それが愛ならば必ず届きます

物質至上主義な世の中で、こういう考えがあってもいいかもなと思っています

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この記事へのコメント

2014年05月13日 03:14
外的要因(=遺伝子上の親)がなければその人は存在しないとおもいます。
また、狼少年の例があるように、外的要因に選択肢がないことも多々あります。と言うか、産まれたての赤ん坊は、選択肢を選ベないと思います。

加えて言うなら、少なくとも動物実験(マウスかラット、どちらか忘れました)において、好みあるいは恐怖が遺伝する事が証明されています。
簡単に言うと、ある薬品をえさに混ぜて、混じったえさを摂取したときのみ電気ショックを加える。そうすると、その薬品を感知する器官が増加し、そのえさを食べなくなる。それは子にも遺伝し、普通のマウスよりも明らかにその器官の数が増加していて、子供も、その薬品が含まれたえさは食べなくなると言うものです。

そういう意味では、「最初の自分」と言うものも親から与えられたものなのではないかと考えます。
やざき
2014年05月16日 19:04
おっしゃることよくわかります。私も同じようなことを考えたことがありました。自由というものを考えたとき、子は親を選べないからそこはどうしても不平等が生まれる。高校生のころ堕胎された子供は物体なのか生物なのかで悩み、そもそも生まれるというのはどこが境目なのか、母親から分離された瞬間を生まれたというのかということで悩み、個人というものはどこからどこまでなのかで悩みました。受精した瞬間こそが誕生なのか?では受精するために必要な卵子と精子は両親あってこそあるもの、その両親すら双方の両親の卵子と精子があればこそ、どこがはじまりなのか、どこで境目を付けるべきなのか、学生だった私は結論が出せませんでした。つづく
やざき
2014年05月16日 19:05
唐突な話なので頭の悪い人間のたわ言だと思って聞いてください。私は人間というものは物質では無いと考えています。電気とか光とか宇宙を飛び交うエネルギーのようなものが人間の本質だと漠然とそんな気がしています。物質がなぜ物質としてこの有限世界(宇宙)においてこのようにまとまって形を持ってある法則に基づいて構成されているかはまだ人類の科学ではわかっていません。私はそのエネルギーのなにかが形を変えて物質を生み出し、ある一定の法則を作り、今現在もある一定の方向に向けてすべてを動かしていると考えています。物質としての生物はもちろん物質の法則に従うし、それに束縛されるので当然そこには物理の法則、原子の法則、分子の法則、そして遺伝子の法則が絶対的でありそこには「選べない」という不自由が生じると思います。それらで縛れない場所に私は人間の本質・正体があるのではないかなぁ・・・ととってもいい加減で適当で漠然とした勘だけでそう思っています。(もう本当にすいません;;)まだつづきます
やざき
2014年05月16日 19:06
なので私はその物質を形作るエネルギー(束縛する力)、物質を進化させるエネルギー(開放する力)、そしてその二つを最適に導く方向性を示すエネルギー(選ぶ力)の三つがこの宇宙には存在していると仮定しています。この三つ目の選ぶエネルギー、二つの側面のエネルギーをまとめる意思というエネルギーが人間の本質であり人間そのものだと考えています。なので遺伝子すら本人が選んだもの、じゃないかなぁ~と考えている次第です。科学的な考え方、研究者などの方からすると地に足がつかないたわ言に思えることかもしれませんが、そういう考え方をする人間もごくまれにいるくらいで捉えていただけると有り難いと思います。

こんなこと言いながらも、実のところはただ「両親は選べないから仕方なくこの二人から生まれた」ではなく「二人を選んで、二人の子供として自分で選んでここに生まれてきたんだよ」と両親に対して思いたいからこんなたわ言めいたことを考えただけかもしれません(^^;<長いなぁ

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