宗教について第三回「仏教②~空、仏~」

人は誰しも迷い苦しみます。
笑いたいし愛し合いたい。大切に想われたいし、想いたい。
でも、それができない。信じられない。怖い。
胸がちくりと痛みます、その痛みから怒りと不満が生まれます。
一度生まれたそれは消えません。
親から子へ受け継がれ、消えません。
それは苦しいのです。

人はなぜ生きるのか、なぜ苦しむのか?
これを解決したいと思ったのがブッダでした。
ブッダは苦しんだ末に「みんな一つだ」「誰しもみな神だ」と気付きます。
このみんな一つだという考え方を、仏道では「空(くう)」と言います。

これをわかりやすく言うと
あなたがいます、でもあなたを維持するためには食べ物は食べないといけません。
食べ物もまた命です。その命のおかげであなたがいます。
空気も必要です。水もいります。なによりあなたのお父さんお母さんがいないと生まれてもきません。
父母双方にまた親がおりそのまた親がいます。どこまで繋がります。
あなたが死んでもあなたは分解されまた世界に散らばり、植物や虫や動物の一部になるでしょう。
石にもなるし空気にも風にも火にも土にもなるでしょう。
あなたを支えるすべてに、あなた自身がなるのです。

あなたの右手があります。あなたの右手です。あなたの一部ですね?
その右手を切り落としましょう。あなたの目の前にあなたの右手だった物が落ちています。
その落ちた右手はあなたですか?
両手両足を切り落としましょう、それはあなたですか?
胴体を切り落として首だけです、どうせなら脳みそだけにしてみましょう。SF映画みたいですね。
あなたの前にあるあなたの体の部品は、あなたですか?
脳みそがあなたですか?
じゃその脳みそを細かく分解しましょう。
どこにあなたがいますか?脳細胞の中でしょうか?
脳の電気信号の中?分子、原子まで細かくしましょうか_
原子核の中?電子?素粒子?そのさらに素粒子?どこまでバラバラにしましょうか?
あなたはどこですか?

全部があなたです。

この世のすべてがあなたです。でもあなたはどこにもいないのです。
すべてが細かく分かれることができます、でもどれも単体で存在できません。
それぞれが寄り添いあい欠けることもできません。
なにがどこまででどこに境界があるのか、本当のとこはそんなものは無いのです。
ただ人が勝手に名前をつけて「単位」を決めただけです、一人二人、、、みたいに。
すべてが無限に細かく、そして無限に大きく、一つという無限。
これをが「空」です。


ブッダが求めたものはどこにでもあるものでした。
ブッダはきっとそれを実感を持って知った、悟ったのだろうと思います。
ブッダが凄いと言われるのは多くが悟った人だからと思われるかもしれませんが
本当は「それをわかりやすくそれぞれの立場や考えに合わせて説いた」ところです。
正しいものを、その正しい見方を知らない人、拒絶する人に正しく伝えるのは至難です。
この至難さはこの世のすべてに絶望しかねないほどのものです。
ブッダですら一時期ですが人に説くことをやめた時期があるそうです。
その後とてもわかりやすく例えをまじえて伝えるという手法をとられるようになりました。
私がブッダを尊敬する点はここです、この行為が出来たことこそ聖者だと思いました。
諦めなかったこと、絶望しなかったこと、見捨てなかったこと、信じたこと。
信じること、愛する人を、大丈夫きっとわかってくれると信じること。
信じることは傷付くことです、なぜなら裏切られるからです。
それでも信じる、まわりからバカにされても、無駄だとあざ笑われても
それでも自分の中で生まれた愛を他者に分け与えたいと思うこと。
それを諦めないこと。
これができる人こそ私は聖者と呼ばれる人ではないかと思います。


このブッダの行為は「王者の義務」というものです。
ニーチェの書いた「ツァラツゥストラ」という本で
もっとも尊い行為とは王となって民を導くことだとあります。
私は最初これがわからず、なぜ王などの為政者・権力者にならなければいけないのか
と思ったのですが、それも今はよくわかるようになりました。
尊い愛を手にしたならばそれをすべての人に分け与えるという義務があるのです。
その責任を全うすることが王者の義務であり、もっとも困難で尊い道だということです。

人は無知で愚かです、だから苦しいのです。
自分で自分の首を、愛する人の首を、子供の首を絞め続けているのです。
それに気付かずに恨み憎しみ怒り嫉妬悲観差別を肯定して生きています。
ゆるがぬ愛を手にした人から見れば悲劇でしかありえません。
仏という者は人を憂い救いの手を差し伸べる救い手です。
わかる方なら多分わかると思います。
自分の中に愛があるとき、人はそれを必ず分け与えます。
迷わず注ぎます、注がずにはいられません。
嘘だ!そんなの偽善だ!と思う方もいるかもしれませんが
人は愛があふれたとき、必ずそれを差し出したくなるのです。
これは物理学などと同じ法則そのものです。
そういう原理です。ただ実感しないとわからないのです。
実感した人なら当たり前のように「そうだね」と答えられるようなことです。
仏道、ほとけのみち、は愛を持って苦しみ迷う人に手を差し伸べる道です。
つまり人の道なのです。だって人は愛があれば分け合わずにはいられないからです。
仏道で「すべての人の中に仏がいる」というのは「すべての人が愛を分け与えたがっている」
と言うことを表現しているのです。
もっとも尊い行為、王者の義務とは、その力を愛を使いなさいということです。
何度傷付いてもその愛を持って手を差し伸べなさい、ということが仏道の最終的な考え方です。

不思議ですね、キリスト教と根本は同じようなことなんですv
キリスト教が「考えるより行動が先!」と言うのに対して
仏道は「考えて、知って、悟って、そして行動しましょう!」なのです。
逆方向からはじまっているのに辿り着いたものは同じものという不思議。
少しだけ違うのはキリスト教は自分から前に進み出るのに倒して
仏道は手を差し伸べて待つ、ということです。これは双方の宗教の最大の特徴になっていると思います。
この仏道の考え方は男性脳的なものです。
思考して何が正しいかを把握してから行動に移すという男性は多いのじゃないかと思います。

仏教の有名な話で
若いお坊さんが同年代のお坊さんと村に行ったとき、少し困っている村人がいたので助けたのだそうです。
ですが偉いお坊さんはそれを叱り付けそのお坊さんを破門にしてしまいました。
そのお寺では「村の人に無闇に手助けや交流を持ってはいけない」という決まりがありました。
困っている人を助けることがお坊さんの仕事なのになぜ?と若いお坊さんは思いましたが
仲間の弟子たちがいっしょに偉いお坊さんに謝ってくれて破門は取り消されました。
そしてなぜ破門されたのかその理由を教えてくれました。
「自分自身がまだ成熟していないのに、安易に助けることは相手を不幸にすることもある。
それをわかっているならいいが、お前はそのことすらまだわかっていなかった。
何もわからず何も見えておらず、また自身のことすらままならないのに他人を助けようなどおこがましい!
誰かを助けたいなら一日も早く修行を終えて人を救える僧になれ」
これが偉いお坊さんが叱った理由で、若いお坊さんはとても感銘を受けたそうです。

えー?と思う人もいるかもしれませんが、これが仏道的な考え方です。
未熟な人が不幸な人のそばにいても助けられません。
自分自身もそれに巻き込まれ不幸をさらに深める結果になることは多いです。
仏教が布教せず来るのを待つ姿勢を崩さないのは、この考え方があるからです。
揺るがない自分自身を作る、これが仏道のまず最初で
苦しみ助けを求める人は誰でも受け入れます、という相手の意思を尊重した宗教なのです。
けっこう男性ならわかる道理じゃないかと思いますが
女性だったら「まどるっこしい!となるかもしれませんね。

布教を良しとするキリスト教と、布教は一切しない仏教は一見対極ですが
すべてが一つであって、愛を持って接しましょうという点でまったく同じです。
そしてどちらの宗教も長い歴史のうちで何度も間違いを犯しました。
原点を忘れるからです、とても悲しいことです。


ブッダが託した、伝えたかったことは誰しもの心の中にあります。
ブッダの入滅(死)後、ブッダもまた世界に散らばって私たちを支えています。
実は漫画てんからっ(神道マンガ)にブッダを登場させようとネームを考えたとき
ブッダが「もう教えとか難しいこといいから!もっと笑ってほら笑ってw」と
人間たちに一生懸命(見えてないのに)言ってるシーンが頭をよぎって
「あーブッダがそれ言っちゃうんだw」と可笑しくなったんですが
きっと仏道ってそういうものじゃないかなと個人的に思ったりしました。

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