宗教について第一回「キリスト教」

少しだけ宗教について書きたいと思います。

世界でも信者が多く、日本でもおそらく宗教といえば
仏教と双璧なのがこのキリスト教だと思います。
私は神学者でもなければ専門化でもましてや信者でもないので
歴史やなにかのことはあまり知りませんので書けません。
なのでキリスト教の教え、とかそのようなものをわかりやすく書きたいと思います。

キリスト教の教えは、簡単に言うと「主の言葉に従う」につきます。
主の言葉は絶対であり疑問を抱くことも、逆らうこともありえないことです。
これだけを聞くと日本人からすると「なんて窮屈なんだろう」とか
「人間を縛り付けている」「何も考えない進歩も無い」と思われるかもしれません。

では「主の言葉」つまりキリスト教の戒律(守るべきルール)とは何か?
いろいろあると思うのですが、私が思うにキリスト教の教えの中で
一番シンプルに、そしてすべてを一言で表していると思われるのが

「汝、隣人を愛せよ」

です。
おそらくこの言葉を完全に行動として行うことができるなら、もう他の教えなどいりません。
この一言がキリスト教の教えのすべてを表現した究極の一言です。
この言葉を単純に字面だけで捉えても良いです。意味はそのままです。
ですがちょっと解説すると・・・

キリスト教徒はこの隣人を愛するというのは
その人がキリストである、だからその人に対して最大限の奉仕をすべきという考えで行動します。
キリストの言葉に「あなたが見捨てたその人は私です」というような言葉があり
つまりあなたが隣人を見捨てるなら、それは私(イエス)を見捨てるということと言っているのです。

これを「隣人を見捨てることはイエス(の教えに反する、イエスを教えを)見捨てる」こと
と感じる人もいると思いますが、これはそういう意味ではありません。
その言葉どおり「あなたが見捨てた隣人は私(イエス)です」そのままなのです。
つまりイエスは「その隣人と私は同一人物です」と言っているということです。
意味がわからないかもしれませんが
イエスは「すべてのものが私なのです」と言っているということです。
私に奉仕するということは、この世のすべてのものに奉仕するということと言っているのです。
貧困で苦しんでいる人、暴力で苦しんでいる人、差別に苦しんでいる人、
また空しさに苦しんでいる人、寂しさに苦しんでいる人、怒りに苦しんでいる人
このすべてが自分であり、そのすべての人に奉仕しましょう、とイエスは言っているのです。

このイエスの言葉は、たとえ話ではなく
イエスはこの世界はすべて主が創造したものだと話しています。
すべてが主より生まれたものであり、すべては根源は同じものなのです。
しかしキリスト教の主と呼ばれる絶対神は、姿を持たない神です。
日本的に考えると神とはたくさんいるものなので
日本的に考えるならこの絶対神というのは神ではありません。
すべての根源です。
そしてキリスト教では主=愛(アガペ)なのです。
主は意思は持ちません、ただ愛であり、世界を創造した根源です。
苦しむ被害者を愛するのです、苦しみを与える加害者すら愛するのです。
愛するのです、愛なのです、この主という愛よりこの世界のすべては創造されたのです。

すべては愛で出来ているのです。
イエスはその愛の子です、その愛の子イエスが「その隣人は私です」と言うのです。
すべては私です、すべては同じものです、すべては愛から生まれたものです
私たちは愛から生まれた同一のものです
あなたも私です、私はあなたです、だからあなたを、わたしを愛してください。
わたしたちは同一のものです、だから隣人を愛してください。
その人は私であり、あなたなのです。

これが「汝、隣人を愛せよ」の言葉の真意です。

とあるヒンドゥー教国家の国家元首が言った言葉で
「もしキリスト教徒のすべてが本当にその教えのとおり生きるなら
私の国からヒンドゥー教徒はいなくなっていただろう」と言いました。
この言葉はマザーテレサの向けられた敬意の言葉であると同時に
その他のキリスト教徒への最大の皮肉でした。

キリスト教は虐殺の歴史です。
聖者であったキリストの名は、その後信者を騙った人たちによって
血まみれにされてしまいました。
愛するどころか排他することで侵略し滅ぼし、認め合わず
押しつぶし、差別し、苦しめ、殺し尽くしました。
でも、そんな人達すらキリストは愛したのです。
きっといつか気付いてくれると信じて。

キリスト教のこの「汝、隣人を愛せよ」という真理は
すべてが一連なりであり、すべてが同じだと語ります。
相手のために、傷付くまで奉仕する。
自分のことは後回して、今できる精一杯の愛で
たとえそれが足りなくても、無駄に終わるかもしれなくても
余裕があってその残り物ではないのです
その相手のために傷付くまでして与えられるものを奉仕する。
だって目の前にいるのは苦しんでいる自分なのですから。

多くのキリスト教徒はこういうとき
「わたしはキリストの手に触れました」と言うそうです。
なにものにも代えがたいものを感じるのだそうです。

幸せになってほしい、と願えることは、その人が幸せなのだと思います。

キリスト教の教えのもう一つの特徴は「行動せよ」ということです。
考えるな、迷うな、ただ愛を行動にしなさいということです。
主の言葉は真理であり迷う必要性がありません。
だから行いなさい、という実行動こそ大切という教えなのです。
これはとても女性脳的なものです。
ただこれは、その真理どおり、言葉どおりに行動するならば迷いはいらないということです。
「言葉どおりにしているつもり」がキリスト教の間違いの歴史を作りました。
ですが行動をしなければ救えるものも救えないのです。
苦しむ人を前にして待つなどありえないのです。
女性はそういう方が多いのじゃないかと思います。
考えるより感覚が先に、体が動く。
感覚の一番するどく、敏感で、素直なものを信じて動く。
この極地まで行くと「自分の愛に従って行動する」となります。
自己の深層の愛に達しているのです。
深層の愛は主でありアガペなのです。
その愛に従って迷わず動く、これがキリスト教のすべてだと、私は思っています。

私は少し前までキリスト教は真理から人を遠のかせるものだと思っていましたが
その考えはいまはまったく無くなりました。
このキリスト教というのは信じるに値する真理です。
これを全うしようとする人を私は心から尊敬します。

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